パンセの広場

心身の成長と子どもの暴力(1)

2009年10月25日


 生のエネルギーの暴発から子どもを護るために

(児童心理2007年10月臨時増刊No.867, p.28-36, 金子書房)





 子どもが暴力化してきたといわれる。

学級崩壊,校内暴力,いじめ,自殺,はては幼児,同朋,級友の殺傷,親殺し…。

子どもたちは淡々と自分が犯した行為を語る。罪の意識などないかのように。


 ところで,「vitality(生命力)」と「violence(暴力)」が,共に「vie(生きること)」を語源とするのを,われわれは意外なほどに忘れている。

地下のマグマが地熱(温泉)や豊富な鉱物資源,ミネラルの供給源になる反面,ときに火山噴火の被害をもたらすのと同じように,子どもが発するエ ネルギーにも両面がある。

スポーツに没頭する子どものエネルギッシュな態度を褒めるのは,大人として自然なことかもしれないが,そのエネルギーが,友だちや両親,周囲の大人に対する痛烈,悲惨な暴挙に変身したとき,頭ごなしにそれを非難するのが良心にそった大人の態度と言えるかどうか。


 問題はむしろ,内に秘められたマグマの熱には目もくれず,子どもが外部に表した生のさまざまな表現(カタチ)ばかりをあげつらい,それを善悪の物指しで仕 分けして,暴力のレッテルが貼られたら却下,生命力なら受理,の二項対立で始末したがるデジタル思考偏重の時代精神の側にある。

却下され,叱られてばかり では出口がない。一方に傾きすぎて動きの悪くなったシーソーと同じで面白くない。

幼児だってそれくらいは分かるから,たまには暴発することで,シーソーに 動きを取り戻させる。

それを暴力とみるか,生命力の現れとみるか。

その判断がある意味で,社会の将来を左右する。



心身の成長と「暴力」―規律という名の時代精神―


 相手構わず「手出し」するのは情緒的に幼い証拠。売られた喧嘩には言葉で応じ,むやみに「手出し」しないこと。

子ども同士の喧嘩に,大人は従来,こんな風に対処するのが常だった。

最近は親が子どもの喧嘩に介入するケースも多いと聞く。

周囲の大人に訴えろと,知恵をつける親もいる…。

こういう大人たちの対処 が子どもにどういう影響を与えるか,その是非はともかく,そこには,われわれの心に染みついた時代精神の影が見えなくもない。

行動よりも言葉を上位に置き,あらゆる事柄を「規律(discipline)」で裁断しようとする,また,世界は規律の言葉で理解し尽せると信じる,そういった近代由来の時代精神の影である。


 飛んだり跳ねたり駆け回るだけの身体能力はあっても,落ち着きなく徘徊するばかりでは困る。

人の話を聞くときや勉強するときには私語を慎み,食事の時間は着座する。

それが社会生活の基本であって,これを身につけるには,まず身体制御の方法を習得せねばならない。

この時代精神は,子どもがなすべきことを,まずそのように規定する。

それには,箸や鉛筆の持ち方にはじまり,持ち物の整理整頓方法や挨拶の仕方,整列行進の仕方,時間割にそった行動,音読法や文字の書き順,四則計算の手順,方程式の立て方や文法規則,論理思考の進め方など,生活様式と事物認知の様式を抱き合わせにした 身体制御のカリキュラムをこなす必要がある。


 身体制御に習熟することが社会の一員となるため(成長)の基本で,これが苦手な子にかぎっ て,すぐ手を出したり暴力に訴えたりする。

中枢神経系の発達を例にとっても,生命維持に関与する脳幹部は徐々に大脳皮質の制御下におさまっていく。

子ども は本能を理性の力で飼いならすことで,暴力を好まない従順で素直な存在(社会人)へと成長するのだ。

ダーウィンの色づけで,外見少し丸みを帯びたこの時代 精神から,われわれは常々,そのように教えられてきた。


 しかし,身体制御を意図したこのカリキュラムは,「一望監視」 (Foucault:1975)を特徴とする近代の人間管理システム(病院,学校,軍隊,刑務所)が,患者,生徒,兵士,囚人の管理(教育)を目的に定め た種々の「規律(discipline)」とあまりに酷似して見える。


 「discipline」はもともとキリストの使徒を意味する言葉であった。

中世になって,それが修道院での生活規則を指すようになり,さらに下って近代になると,産業革命下のイギリスで,生産システム管理のための規律へと変身・転用された。

本来,勤勉と清貧を旨とする清教徒の倫理規則だったものが,産 業革命という時代の大波さらされることで,優勝劣敗・弱者淘汰を是とするイギリス支配層の支配・教育の倫理規則へと変貌する(中井 1999,角山2007)。

だが,この規律で鍛えられた軍隊が,整然たる軍律のもと,人間を「もの:単なる標的」扱いしたゲーム感覚で,どれほど非情な戦争を展開したかは,ナポレオン戦争をかわきりに,第一次,第二次の世界大戦,湾岸戦争,イラク戦争をみるまでもなく明らかであろう。


 身体を制御し,本能を理性の統制下におくことができれば,子どもの暴力は抑えられるか。

未熟,粗暴な暴力は減るかもしれない。替わりに言葉の暴力が増える。

人を「もの」扱いし,「こころ」を読もうとしない非情な理性の暴力が増えるのではないか。

子どもが暴力化してきたというが,暴力化したのは社会の側ではないかと思うことがある。

生のエネルギーが発する独特の生活臭に耐えられず,理性と言葉で武装して,その匂い消しに躍起となっているのが,われわれの偽らざる現実なのだから。


 「幸福論」で有名なアランがこんなことを書いている。

…他人に翻意をうながす思考の威力,これもまた一種の暴力だろう。

かさにかかって説き伏せる「もの書き」は好きになれない,…人間という奴は戦争に手を染めながら,もう一方で,何をしたら監獄行き,絞首台送りで,どういうときは発砲してもかまわないなど,戦争の法律づくりに余念がない。

その最たるものが,勝てば官軍式の力による正義じゃないか。

これは,思考と行動の 混乱以外のなにものでもない。思考は法律をもちだすが,身体が必要としてるのは法律ではなく行動だ…(Alain 1941 Livre 5eme)。


>>(2)へつづく






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■外傷記憶について
■KYについて(1)
■心身の成長と子どもの暴力(1):「児童心理」掲載
■心身の成長と子どもの暴力(2):「児童心理」掲載





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