KYについて(1)
2009年 10月 25日
「KY」は不思議なことばです。
はじめのうちは,“空気読めない”をローマ字二字で表現しただけの,たあいない中高生たちの「省エネことば」くらいにし かみられていなかったのが,最近では,普通?の大人たちまでが日常語として「KY」を連呼するようになっているからです。
日増しに浸透する不思議なことば,時代の空気を端的に表現した絶妙なことばだったということでしょうか。
けれども,「KY」だと宣告される側は災難です。
一方的に村八分にされ,しかも,名誉回復の途まで遮断されたようなもので,それが引き金になって,引きこもりになる人もいるからです。
どうすればこの状態から自分を救い出すことができるか。
それには,「KY」ということばの秘密というか,このことばが暗に指し示す現代社会の闇の部分,その秘密というか仕掛けが,しっかり理解できていなければいけないと思うのです。
最近の若者たちはボキャブラリーが貧しいと言う人がいます。
たしかに,何を観ても,何を聞いても“カワイイ!”一点張りの10代20代の女の子ことばを耳にすると,もう少し細かいニュアンスの違いは表現できないものかと苛立ちを覚えます。
判で押したよう に,“マジ”,“キレタ”,“カワイイ”,“ヤバイ”,“萌え”,“KY”では,いい加減うんざりするからです。
けれども,よく耳をそばだててみると,中高生たちが使うワンパターン・ボキャには二種類あるのが分かります。
一過性に流行るだけですぐ消滅することばと,徐々に社会に浸透することばの二種類です。
“チョベリバ”,“チョベリグ”や“アッシー君”が前者の典型だったとすれば,“KY”や“カワイイ!(独特のイントネーションが必須)”はさしずめ 後者の典型です。
これ以上,時代の空気にフィットしたことばを創り出すのは至難の業かもしれません。
中高生おそるべしです。
最近,同僚から興味深い指摘を受けました。
中高生や現代の若者たちの方が,大人たちより,余程,社会の空気の変化に敏感だと言うのです…
10年くらい前 から,若者たちはそういう時代の空気の変化にフィットすることばを求めて,暗中模索,努力していたのかもしれない。
既存のボキャでは,自分たちが感じる時代の空気の変化にフィットしないから,果敢に,新しいボキャ創出を試みてきたのではないか…そう言うのです。
“チョベリバ”や“キレタ”,“カワイイ”, “ヤバイ”,“萌え”,“KY”は,すべてそういう若者たちの鋭い感性の産物ではなかったか。
現代の中高生たちの方が,大人たちより余程,時代の空気の変 化に敏感だし,それを表現しきる鋭い言語感覚をもっている。
そんな指摘を受けたのです。
なるほど!たしかにその通りなのかもしれません。
では,若者たちの鋭敏な嗅覚が嗅ぎ分けた「時代の空気の変化」とはどういうものだったのでしょうか?
それは多分,自分の周囲を流れる空気が時々刻々,不気 味に変化する,そういった微妙な時間・空間感覚,対人感覚ではないかと思います。
同じ相手と同じ場所で話していても,昨日と今日では,その場を流れる空気 がまったく違う,流れる空気の成分が同じだと感じられない,そういう感覚です。
周囲や相手と巧くコミュニケーションするには,この微妙な空気の変化を敏感 にキャッチしなければいけない。失敗したら,こころが酸欠状態になって息ができなくなる。
そういう不気味な感覚に襲われているのだと思います。
大人たちは 既存の倫理観や生活習慣で完全武装して生きているから,その分皮膚感覚が鈍くなるため,微妙な空気の変化に気づかずに済んでいるだけのことなのです。
しかし,空気の変化に鋭敏な若者たちは鈍感ぶっているわけにいきません。
こういう不気味な感覚というか,流れる空気の変化を予感したら,自分とは違う異 質な空気を漂わせる人を見つけ出して,素早く「KY」という魔法のことばを投げつけないといけない。
そうすることでバリヤーを張り異質な空気の侵入を阻止 しなければ,自分の周りの空気を安定した状態に維持することができなくなるからです。
空気の変化に敏感で,しかも空気変化に対するトレランス(耐性)の低い人ほど,周囲にいる人のことを「KY」呼ばわりしたがる。
自己防衛の域を超えた過剰防衛に陥り易いということです。
自分の周りを安定 した空気の流れで充たす魔法の「ことば」がもうひとつあります。
「カワイイ」です。
洋服が「カワイイ」,家具が「カワイイ」,店の調度やその場の雰囲気が 「カワイイ」。
つまり,自分の感覚を周囲にアッピールして,その場の空気をひとつの色に染めあげることで,妙な空気が入り込むのを防ぐのです。
「カワイイ!」と言ったとき,それに同意しない人や,否定の素振りをみせる人がいたら,それだけで,その人に「KY」のレッテルを貼りつける。
自己防衛のための先 制攻撃みたいなものです。
そういう含みが,この「カワイイ!」ということばにはひそんでいるように思われるのです。
ここで注意しなければならないことがあります。
「KY」を単純に「場違い」ということばの延長で考えてはいけないということです。
「場違い」ということばには規律違反のイメージが付着しています。
意味もなく教室内を歩き回り,私語を繰り返す子ども。
授業中に飲食や携帯・メール,お 化粧直しをやめない学生。
場の雰囲気を無視して,相手かまわず持論をまくしたてる人…。
「KY」をそういう規律違反の場違いイメージで捉えるのは,ある意味で社会の常なのかもしれません。
社会は安定感を好むからです。だから,モラルや規律で周囲を固めて,内部の空気を一定に保とうとする。
そこに平然と規律 を破ってはばからない人が現れたら,社会の空気というか安定感が乱されてしまうから,平然と規律を無視してはばからない人は社会から忌み嫌われるのかもしれません。
規律破りの場違い人間,「KY:空気読めない」はそういう人のことを指すと考えるのは,社会の側からみれば,だからごく自然なことだったのです。
でも,そうだとなると,「KY:空気読めない」の逆,つまり,「空気を読む」には,規律違反の逆,つまり,“こうでなければいけない”式のスタティック に社会化された,規律遵守イメージが込められていることになってしまいます。
けれども,「空気を読む」には,もっとヴィヴィッドでダイナミックな野生の知恵に似たイメージも含まれているのではないでしょうか。
人間もまた動物なのですから,獲物を狙う狩人のように,人間関係のジャングルに漂う微細な空気の変化が読めなかったら,上手く生きてはいけないはずなのです。
ところが,こういう野生的な独特の能力に突き動かされて,周囲に鋭いことばを投げつける人に出 会うと,社会の側は彼らに「KY」のレッテルを貼ろうとするのが常なのです。
「空気を読みすぎる」のは,その人が充分に社会化の洗礼を受けていない証拠み たいなもので,社会の「空気が読めない」場違い人間と同じだと言わんばかりなのです。
しかし,社会の仕組みがこういうものだとするならば,周囲から 「KY」呼ばわりされた人は,自分は場違い人間として村八分にされたのだと落ち込んでばかりいないで,逆に,周囲から“おまえは独特な野性的能力の持ち主だ”とのお墨付きをもらったのだと,自分を褒めてあげ,今と未来を生きるために,その独特な能力に磨きをかける方が生産的だということになりはしないで しょうか。
それが「レジリエンス」の二枚腰というものかもしれません。
「レジリエンス(resilience)」の語源は「海老(shrimp)」です。
一方向から押されすぎて身体が半分に折れ曲がりそうになったら,その反発力で数メートル先まで飛躍する。
それが人間として生産的に自分と折り合いをつける ということなのかもしれません。
中井久夫先生のことばだったと記憶していますが,“相手のことを理解し尽くそうなどと考えず,誤解できる程度に理解する”のが,人間関係の秘訣なのです。
「KY」だと言われたら,自分のなかで,内心ひそかにガッツ・ポーズをとってみる。
臨床的には,そういう逆転の発想,苦境を逆利用する発想がこころに元気を取り戻す栄養剤になることもあるのです。
>>>パンセの広場・目次
■外傷記憶について
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■心身の成長と子どもの暴力(1):「児童心理」掲載
■心身の成長と子どもの暴力(2):「児童心理」掲載